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写真が内包するもの

キャプションなしのコミュニケーション


ホワイトキューブでの展示


テーマ性を観察者が決める展示をやってみたいと思った。 無意味羅列として写真を並べてみた。 -何を- -どう- -感じるのか- 茅場町の今回の展示は、そんな試みだった。





離島で出逢った山羊


近くの池に咲く蓮


裸婦の乳房


紫陽花の花芽



寺院脇に佇む地蔵像




アクセントで紫陽花を浮かせた。





恣意的でないにしても、どうしても気配が並んでいるようにしか自分には感じない。





が、それはあくまでも自分の範疇での話。


気配とは何かを見つめ続けているが、最近ふっと「黒の余白部分」もその一つではないかと思うようになった。


そうなると、黒とは何かを見つめたくなるもの。

闇とは何かもその一つだ。


谷川俊太郎の詩の一説にこのようなものがある。


闇がなければ光はなかった 闇は光の母     光がなければ眼はなかった 眼は光の子ども 眼に見えるものが隠している 眼に見えぬもの 人間は母の胎内の闇から生まれ ふるさとの闇へと帰ってゆく つかの間の光によって 世界の限りない美しさを知り こころとからだにひそむ宇宙を 眼が休む夜に夢見る いつ始まったのか私たちは 誰が始めたのかすべてを その謎に迫ろうとして眼は 見えぬものを見るすべを探る ダークマター 眼に見えず耳に聞こえず しかもずっしりと伝わってくる 重々しい気配のようなもの そこから今もなお 生まれ続けているものがある 闇は無ではない 闇は私たちを愛している 光を孕み光を育む闇の その愛を恐れてはならない


(谷川俊太郎/著「星空の谷川俊太郎質問箱」より引用) そう、闇は、光の母。 光と闇は一般手には白と黒。

何かヒントを得たような感覚で展示を終えたような気がする。






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