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執筆者の写真Yuki Kuroda

見えない声、聞こえない色


ふじのみや まちなかアートギャラリー2022


「見えない声、聞こえない色」展示風景-@La maman plus


「ふじのみや まちなかアートギャラリー」は、今季で19回目を迎える。

商店をそのままギャラリーに見立てて展示をするというコンセプトだが、2022年は新型コロナウイルス対策を万全に行い、無事に開催された。 今回のテーマは「見えない声、聞こえない色」。


会場は、女性のための整体室 La maman plusさん。

大きな窓に広々とした天井。ここに、大型の作品を4つ鎮座。



当たり前のことだが、一般的には本来、声は見えないし、色は聞こえない。

しかし、気配という意味で物事を捉えた時、見聞きできるはずもないものが迫ってくることがある。



何かを感じる時、私個人の場合は「五感すべて」でそれを享受している気がしたので、それが、声として見え、色として聞こえると、今回はコンセプト立てをした。


気になれば匂いも嗅ぎ、目に止まれば周囲の環境音に耳を澄ませる。


本当に極々一個人の感覚のなので、説明しづらいものだが、気になるものは、耳の後ろのあたりが「ゾワッ」としたり、「ピーン」と耳鳴りがしたり、あくびをした時のように「サー」と音が鳴って嗅覚が異常に反応したり、周囲の音が聞こえなくなったり、足が地に着いている感覚(足があるという感覚)がなくなったり等、体が反応しているような気がする。

2020年、全精力を注いで取り組んだ「佐澤薬師如来修復プロジェクト」で、川根本町久野脇の薬師堂が山の中にあった頃の、通称元々薬師跡地を訪れた時、「体の感覚が反応する」

第一印象はとても強かった。



展示:「螺旋革命」



信仰はどこまでも螺旋のように続いてゆく。


この跡地周りにある炭焼き小屋跡や、石垣の名残、人が踏み歩いた道の凹み‥沢の近くに散りばめられた営みの痕跡が、さらに佐沢薬師と久野脇の人々との結びつきの強さを感じさせた。



そして、自宅近くにある「白ふじの滝」は、マムシやヤマカガシ、スズメバチなどの活動が盛んでない時期を除き、よく撮りに行く場所。

植物の佇まいや、岩の風貌、水や樹根の表情など、私にとってたくさんのことを教えてくれる「現場」でもある。


参考:白ふじの滝

数少ない来訪者が足場にする岩がある。

それが今回の展示、「機は熟した」だ。

展示:「機は熟した」



時に足場となり、さらにある時には休憩の座となる。

岩には水の記憶が刻まれ、掌で肌に触れれば、脈がその手を打ち返す(個人的所感です)。



さらに、滝の両脇に生い茂る杉は、その足を赤く、蛸のように岩を包み込んでいる。


参考:蛸足のような樹根

そしてその主である幹には、生命のたぎりが宿っている。



展示:「うねる」


行者修行の場だったという白ふじの滝だが、様々な信仰がうねり、育まれ、季節の移ろいを私に知らせてくれる、まさに修行とも言える場所なのかもしれない。



展示:「prayer in the dark」



展示:「見えない声、聞こえない色」


滝の水の肌は輝き、


展示:「水肌」


光に照らされた蜘蛛が見つめる。




そして毎年蓮の一生を見つめる櫻宮神社では、凪の水面に空が映る。



展示:「D.N.A.」



そして、色を見つめた。


自然界には珍しい青の世界。


緑青腐菌は、朽ちた広葉樹の肌を藍に染める。


展示:「緑青腐菌」



闇を見つめ、光を追う。


谷川俊太郎の、「闇は光の母」という詩に、ここ最近の救いがあったこともあり、その一節を噛み締めながら、今回の展示を組み立てた。


ここ数年、コロナの影響が全くなかったとは言えない。

閑散期というに等しい時間が、自身の撮る意味について執拗に迫ってくることがあった。



   闇がなければ光はなかった

   闇は光の母    


   光がなければ眼はなかった

   眼は光の子ども


   眼に見えるものが隠している

   眼に見えぬもの


   人間は母の胎内の闇から生まれ

   ふるさとの闇へと帰ってゆく



ーー(中略)




   ダークマター

   眼に見えず耳に聞こえず


   しかもずっしりと伝わってくる

   重々しい気配のようなもの

           

   そこから今もなお

   生まれ続けているものがある


   闇は無ではない

   闇は私たちを愛している


   光を孕み光を育む闇の

   その愛を恐れてはならない


   (谷川俊太郎「闇は光の母」より一部引用 「詩の本」 2009年、集英社)




眼に見えるものが隠している、眼に見えぬもの。

それが、「見えない声、聞こえない色」だと私は思った。


そして、dark matter なのだ。


撮る対象に意味を見出そうとしても、苦しい言い訳にしか聞こえなかった時期がある。


もっと物事をシンプルに考えると、「私が反応したかどうか」だけでいいと、この詩が教えてくれたのかもしれない。


闇は光の母なのだから。


光と闇。朝と夜。



展示:「朝」



展示:「ソラウミ」


ここ数年、「熊野」「玉置神社」をライフワークとして撮り続けているが、境内で見たその朝陽と、山頂で見た「朝焼け」には既に「闇は光の母」というフレーズが滲み出ていた気がしてならない。


体の反応や感覚の呼応を信じ、これからも「見えない声、聞こえない色」を気配として撮り続けようと決意できた展示となった。





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